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これぞ昭和、豪快親父の昔ばなし

昔はよかったなー、って、どこぞ屋のじじーがいつもの、唸りながら焼き鳥をかじる、それが昭和、、

 この親爺も小学生の頃は、体が小さくて、小回りが効いていたんだよ。

 

 とにかく勉強はしなかった。(自慢です) そのかわり"人100倍"外で遊んでいた。

 

 冬はいつも屋根に登る。今と違って全てが三角屋根だから、雪が落ちて斜面になり屋根に登れるってこと。

 

 とにかく高いところが好きだったから、屋根に登っては飛び降りる。

前方回転・後方回転、何でも、、やった。。

 

 落ちると胸まで雪の中に埋まり、長靴が取れなくなる。裸足で家に帰って、おふくろにこっぴどく叱られた。もんだ。。 

 

 飽き足りない「やんちゃ坊主」は、田舎の商店街の屋根に雪がタンマリ積もると、2mくらいの隣の屋根通しが雪でつながるので、それを誰か゛先に何処まで渡れるかを競う。

 田舎と言っても、商店街だから3階建。。落ちたらただでは済まない。更には、今と違って軒には「巨大なつらら」付き。。ヘタをすれば命もない、、ビビる仲間を尻目に、豪快親爺はいつも先頭で渡りきったもんだ。

 

 

 学田スキー場までは、家から歩いてたっぷり1時間。毎日通った。どんな吹雪の日も、-30度日もね、何せ昔は、氷点下30度を下回ると学校が休みになったんだよ。飛び上がって喜んだ。。(^ _ ^)

 

 スキー場の前には、剣淵川が流れている(川幅は約20m)橋を渡って帰ると1時間以上、河を渡ればかなりの短縮となる。さあー、誰が最初に河を渡るか、(雪が積もっていて、河が凍ってるかどうかは、落ちてみないとわからんのである。落ちたら即死亡)

 勿論スキーを履いてである。土手から滑り降りれば河の半分くらいまでは行けるから、後は一気に走れば渡り切れる、、"はずだと""

 いつでも、どこでも豪快親爺は、先人を切った。。

 冒険大好き、一か八か、、勝負に挑む、、こんな精神を今でも持っていたら、ゴルフも上手くなったろうにねー、、( T _ T; )

 

 学田スキー場は、標高差約50mくらい、全長200mくらい、、とにかく飛んでないとつまらん。。圧雪車もないからスキーヤーは全員でゲレンデを踏んでからでないとスキーはできない。小学生は整備なんてやってられん。。とにかくジャンプ台を毎日作って飛んでた。あらゆる場所に。。

 

 スキー場に飽きたころには、倉庫の屋根から、お寺の屋根から、道路の崖、河の土手、神社の階段、裏山の沢、究極は「墓地」(既に時効だから話すが)墓石に雪を積んで、墓石を飛び越えて遊んだ事もある。そこでは怪我した仲間を出してしまい、親爺から往復ビンタの嵐、。ここだけの話だからないしょにしておいて下さい。

 

 おかげで日本人初の後方3回転宙返りを成功するまでになった。しかも、ジャンプ台もない、コーチもいない、どこからスタートしていいかもわからん、一か八か雪でトライしてみた、(しっこちびったが) 

 

  とにかく、ガキの頃は何でもやった、、

 

 しかし、そんなやんちゃも、もう50年以上前の話だからねー、

 

 それでも、そんな人生で得た教訓は、「なせば成る」である。馬鹿げたことでも、何でも、挑戦することから始まるのである。何が起きても動じない精神を心がけていれば、1時間連続腹筋もできるようになった。小樽から士別まで歩いて帰ってみたことだってある。15才の夏だった。(230km)

 

 ちなみに、伊能忠敬は、55才から日本地図を作るために71才まで日本中を歩いて測量して、それを成し遂げたんだってさ。小樽士別間なんて、鼻くそだね。しかも、道なき道や崖を走破したんだから、とんでも無い豪快親爺だー。(1800年、寛政12年〜1816年までかかったらしい)

 世の中には、凄い偉人が沢山いるんだよ、ねー、、

 

 さて、この豪快親爺はオリンピックもでたが、まだまだ、これから豪快列伝、、

もう一花咲かせるよー、、。。

 

 

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